3.11から4年、本当に変わらなければいけない僕たち自身の考え方。
なぜ、効率化とか均一化が良くないか?
それは、一言でいうと依存社会、無知社会、無責任社会をつくるから。
どんなときも安定的に効率的に電気が供給されるようになりました。
なにがいけないか。原発が悪いとはいっていません。
そういう「安定」というものが、人の「楽をする」という本能を駆り立たせます。
その結果、安定的電力が前提となる、結果的に原発がなくてはならない依存社会になり、それがどのくらい恐ろしいものか、どんだけ大変な苦労が裏にはあるのかに対してまったく無知になって、しまいにはそれを頑張ってやってきた人たちや政治家のせいにするという無責任な社会になってしまいました。
結局だれが悪いかといえば、僕たち一人一人が効率化、均一化によって「楽したい」という欲望を究極まで求めてきてしまったからなんだと思います。
「自由」をめぐるパラドックスは実に不思議です。
人は自由になりたくていろいろなことを効率化したり均質化したりするんですよね。少ない時間で多くの果実を得るために、働く時間を減らしてやりたいことをする時間をつくるために。それ自体は決して悪いことではなくむしろ、自由に生きるために大切なことです。
でも、それが行き過ぎるといつのまにか、「大きなもの」に依存し、支配される状態になる。これは逆にリスキーな状態で、いつまにか不自由という大きな箱のなかで生きていることを知らないまま、自由に生きていると勘違いした状態でいることになります。そして、あるとき突然その大きな箱に穴があいたときに、はじめてその箱の存在に気づいて愕然とするということです。僕は、3.11の教訓をそのように捉えています。
僕たちは、自由を求めてきたが、その結果いつのまにか不自由になってしまったということです。
じゃあ、このパラドックスの輪を抜け出す出口はどこにあるのか?
僕は、「倫理」と 「知性」とだと思っています。
これは、これまでの社会で重視してきた「効率性」と「論理」 に対応するものです。
「効率性」に勝る「倫理」というのは、たしかにこっちのほうが効率的だけど、自然環境や社会にとってはよくないよねとか、子供たちのこと考えたらやめたほうがいいよねとか、とどまる所のない効率性の追求をちょうどよいところにとどめるものです。
「論理」に勝る「知性」というのは、こうなっているだろう、こうあるべきだ、と頭で漠然と考えているのではなくて、実際にどうなっているのか、まず自ら知るということが第1だということです。僕たちが生きてきた消費社会というのは、「大きなもの」への依存社会であり、ひとつひとつの製造プロセスやメカニズムが完全にブラックボックス化してしまいました。実際どうなっているのか、消費者ひとりひとりが知ることが大切です。
「知性」を得るうえで大事になるのは「身体感覚」です。
「大きなものの論理」への依存を断ち切るのは、「一人一人の身体感覚」です。大きなものへの依存社会でたち消えてしまったのは、僕たち一人一人の感性です。大量生産大量消費のマスプロダクト・マスプローションは、一人一人のもの、ことへの感覚を麻痺させ、失わせました。
僕たちひとりひとりが真の人間的な知性を取り戻すことができれば、原発だ原発ゼロだというイデオロギー戦争ではなく、「ごく自然」なところに行き着くのではないかと思うのです。
ひとりひとりが、よく人の話を聞く耳をもち、手で素材の良し悪しを感じ、舌で一番体が求めているものを探し、目で本物を見る。人に任せるものは任せても、ものごとが「身体感覚」から離れすぎないことを意識する。そういう生き方、働き方が増えていけば、脱依存、脱無知、脱無責任社会の実現が可能になってくるのではないかと思うのです。