僕がアクセンチュアを辞めた理由
2月末をもって、12年間勤めたアクセンチュア株式会社を退社することにしました。お世話になった皆様方には本当に感謝しています。
これから述べることは、もちろん個人的見解です。もし、アクセンチュアの内部批判・告発を待ち望んている学生さんや転職希望者の方には期待はずれな記事になると思うので、他のサイトを当たってみてください。
アクセンチュアという会社は僕にとっては期待通り「会社員として最大限の自由を享受できるシステム」であり、素晴らしい環境でした。
僕はそういう意味で居心地がよかったのですが、そこから離れる意味というのは、アクセンチュアが先導してきたグローバル資本主義経済のシステムをつくるチームから一度離脱して、オルタナティブなシステムをつくる側に回ることにしたということです。
はじめにアクセンチュアがなぜ会社員にとって最も自由な環境なのかについて話しておきたいと思います。
一方でその環境がパラドックス的に不自由を作り出しているかもしれないという展開をします。それは個人の自由達成においても、経済の自由達成においてもです。今後、オルタナティブな勢力としてすべきこと、アクセンチュアがすべきことについて僕の考えを述べさせていただきたいと思います。
目次
1 アクセンチュアは最も自由を追求できる環境
2 個人の自由追求とその達成がもたらす不自然な生活
3 経済の自由追求とその達成がもたらす不自然な社会
4 A面とB面
5 アクセンチュアに残る同僚と後輩たちへのメッセージ
6 真の成功者とは、大富豪ではなく・・・
1 アクセンチュアは最も自由を追求できる環境
アクセンチュアという会社は、社会人の第1歩としては、最高の環境です。これ以上は他になかったのではと思います。他の会社に勤めたことがないわけですが、その違いは容易につきます。
アクセンチュアは僕にとってこんな会社でした。
・無駄な会議がない→あったら自分で潰すことができる
・できの悪い上司もいない→いたら、自分でプロジェクトチームから外すことができる
・できない部下もいない→いたら、同様外すことができる
・いやな仕事もない→あったら、最悪そのプロジェクトからリリースしてもらえばいいこと
・成果さえ出せば、給料もあがる
・合理的で成果主義なため朝9時に席に座っていろという、無意味な決まりにも縛られなくてすむ
(従って平日でもサーフィンを好きなだけできる。ただし、成果さえ出していれば。)
・やりたい仕事が必ずできる(アクセチュアは全産業、全バリューチェーンの課題解決を対象としており、かつニーズと希望のマッチング(面談)が必ずあるので、基本的にできない仕事はない、はず)
当たり前のように思っていたこれらの環境というのは、僕が最も欲していた、何にも縛られることのない「自由」そのものでした。無駄で無意味な慣習などに縛られることがない、極めて合理的なシステムです。
当然、自由であるということには責任が伴いますし、安全でない、ということです。
成果が出せなければとても厳しい環境であることは言うまでもありません。アクセンチュアの批判をネット上で発見しても、それは多くの場合、あまり仕事ができなかった人が発しているもののように思います。
2 個人の自由追求とその達成がもたらす不自然な生活
僕は、この自由な環境を生かして、アクセンチュアにいる間に、マズローの5段階欲求の階段を最速で駆け抜けてやろうと思ってやってきました。下位層の欲求である、お金をたくさん稼いで、いい家に住んで、高いものを身につけて、たくさんの女性とデートして。そんなことを30歳までに一通り卒業するほどアホみたいにやりつくしました。ひととおり自分の(下位層の)欲求は充たせる自由を手にしました。問題は、その先どこに向かうかです。
僕の持論ですが、年収はいわゆる大台を超えたあたりからは必ず何かを犠牲にしないとそれ以上稼げません。
当たり前ですね。人よりもずっと稼ぐのだから、どこかで人よりも無理=”人間として自然ではないこと”をしています。儲けている人は、多大な時間を費やす、多大なリスクとストレスを抱える、健康を度外視する、などとお金を換金しています。簡単な金儲けなどありません。
アクセンチュアの僕らの年代であれば、売上数千億~数兆円規模の企業経営に対して、数億~数十億という仕事を提案してそのお金と人を使って成果をあげる責任を一手に引き受けます。もちろん、やりがいもあるし、お金ももらえます。
ただ、ここだけの話?優秀な先輩や同僚の多くは酒や女に夢中です、笑。ディカプリオ主演の「ウルフ・オブ・ウォールストリート」の世界(一代で巨額の富を築き上げた主人公が酒とドラックに溺れていく)あれが成れの果てですが、そういう兆候があるのは内資外資とわず、収入の高い企業にありがちな傾向です。(統計的にはわかりません、あくまで周りを見渡していたしたときの感覚ですが、手応えは十分です、笑)
接待や部下のモチベーション維持のため、経費で美味しいものもたくさん食べられます。睡眠時間も少なく運動する時間も限られるのでどうしても太ります。そして即効性のあるマッサージを受け、専任トレーナーをつけてダイエットしたりします。買い物に頭と足をつかっている時間もないので、とりあえず間違えのない高級ブランド品を身につけておきます。
よい循環ですね!たくさん稼いだ金は、酒と女とブランド品とストレスを発散するためのビジネスに費やされ、それでGDPはあがって経済は活性化しますね!!
うーん、なんだか、変だと思いませんか、僕はとっても変だなあと思っていました。
自由を得て成功していると言われているエリート集団の多くがとっても変な?生活をしているなあと。
そういう人たちだけではないしそういう人たち自体を否定しているのではありません、僕はそういう人たちが生まれてしまっているシステム自体になんらかの欠陥があるのだと思わずにはいられませんでした。
お金持ちになったことがないのにお金のことは否定できないし、女遊びをしてないのに女遊びを否定することはできないですから、僕はマズローの階段を登り切ったときの景色が早く見たく、言いたくてここまできました。世の中他を見渡せば僕なんか全然やりきっているほうではないですが、次のステップに行くのに僕にはこれで十分でした。
3 経済の自由追求とその達成がもたらす不自然な社会
2.ではアクセンチュアという極めて合理的システムのなかで、個人が自由を追求した結果もたらされる不自然さについて述べました。ここからは視点を変えて、アクセンチュアが経済の自由を実現するために追求しているグローバル資本主義経済がもたらす不自然さについてです。
鶏の話をします。
みなさんはどのくらいの方が「平飼いの卵」を食べたことがあるでしょうか。
日本人の卵の消費は年間330個で世界で第2位でアメリカやフランスよりも多い消費量であり、卵大国であります。それを支えてきた養鶏場の経営システムのお話です。
父がよく言っていました。1950年代、卵1個の価格は公衆浴場の大人料金、ビン牛乳一本の価格とほぼ同じ15円程度だったそうです。
驚くべきことに現代でも、卵一個の値段はほとんど変わっていません。一方のビン牛乳は120円=卵8個分、公衆浴場の料金は、430円=卵2パック以上分。これがどうして成り立っているのか、考えたことがある人はそう多くないのではないでしょうか。
1戸あたり10羽飼うのが限界だったのが、今では、1養鶏場の平均は5万羽だそうです。もっとも効率化された養鶏場は20万羽を5人で回しています。温度、湿度、空調は完璧に管理されたバタリーゲージというのが全体の98%です。多くの鶏は、窓のないわずかB5の大きさの中で一生を終えます。ストレスを抱えているので餌もあまり消費されない。それがまた効率がよいわですね。
逆にストレスなく生きた土の上を歩き回って自由に育った鶏=平飼いの卵は、明らかに殻が固く、ぷりぷりしていて、その背景を知っていれば、なおさらおいしい。卵が1個100円であったとしても、それで食っていけなくなるわけではないのですが、99%の消費者は1個15円の卵をずっと支持し続けてきています。
いうまでもなく、動物愛護の観点でこの話をしているのではありません。僕は僕たちが推し進めている資本主義経済の話をしています。経営として1個15円で卵がつくれる、消費者としてその値段で買える、というのはこのシステム上は素晴らしいことだとされてきた。それがこれまで僕たちが追求してきた経済システムです。
さらにこのシステムによって、高度依存型社会、無知社会、無責任社会が生まれました。
3.11はそのことを如実に示していませんか。
僕たちは自由を求めてきたはずなのに、いつの間にブラックボックスで肥大化した巨大なシステムに依存せざるを経ない不自由な状況に陥っている気がしてなりません。
僕はこのシステムに大いなる違和感を覚えずには入られませんでした。
その理由のひとつは、きっと僕がサーファーだからです。
サーフィンというスポーツは、自然エネルギーをいかにロスなく無駄なくスピードに変えて楽しむかを追求するスポーツです。上手い人は最も効率良くエネルギーをパワーと加速に変えて、喜びに変えているわけです。
植物、動物、建築、水、エネルギー、コミュニティー、これら全てをデザインの対象とする、パーマカルチャーという概念があります。
風向きや太陽の方角などから家のデザインを決めるのは当たり前ですが、雨水、湧き水を重力で供給えきるように、住宅の排水でさえ、葦を通過して農園の小川に流れるようにデザインする。
鶏は、放し飼いにすることで、害虫を退治し、雑草を食べ、糞が土の栄養になる。単一品種ではなく複数品種の植物をうまく植えることで相互に助け合いながら成長する。鳥や魚が住みやすくして、水や植物によい影響を与えるようにするために設計する。人間の作業が最小限に住むようゾーニングが考えられる。一つの有機物が複数の役割を担う。あらゆる自然の多様性を総合的に有機的にデザインすることで、自然エネルギーのロスなく最も効率よく、恒久的に持続可能なシステムがなりたつ、ということを目指したデザイン手法です。
前述した、ゲージで完全に管理されたシステムと後者で紹介した自然と人間の多様性を踏まえて有機的にデザインされたシステムがある。どちらも極めて合理的で効率的なシステムですが、僕の大いなる関心は後者にあります。
4 A面とB面
僕は、12年前にアクセンチュアに勤めるようになり、7年前に鎌倉にきてから徐々に鎌倉にシフトしてきました。古いですが昔のカセットに例えると、前者がA面、後者がB面です。
A面は、世間一般に受ける人気の曲で、わかりやすくてビジネスとしても成功する曲です。B面は、一般的には受けないものの、アーティスト本人としては気に入っている曲です。
僕は、このカセットをつくることでバランスをとってきたのですが、ついに内なる声を無視できなくなってB面だけで生きていこうと決意したということです。
直近のB面の話です。
僕は、鎌倉で小さなお店をやっています。4年前に奥さんと細々とはじめたヨガサロンです。
ここは、これまで話してきたオルタナティブなシステムー生き方、働き方、経済、コミュニティの実験場です。
現在、ご縁があって、農家さんと鎌倉野菜をにつくっています。
週2日は畑仕事をして、テラスでマルシェをやって。旬のもの、とれたてのもの、自分たちでつくったもの、これがめちゃめちゃおいしくて。お客さんが美味しかったと喜んでくださり、珍しい食材も多いのでレシピを共有しあいながら、たまに持ち寄りパーティーをやって。
身体にいれるものから、身体のメンテナンスと暮らしを豊かにするスキルの提供、そこに集う仲間同志の情報や笑顔の交換。お客さんとは、家族みたいに結びついていって、強い信頼関係で結ばれていく。これが、先に紹介した効率化された養鶏所のような、経済合理性や効率化一辺倒の世界から自由になる糸口のひとつであり、古くて新しいアプローチではと思っています。
鎌倉には、農業、漁業、サーファー、アーティスト、古くから伝統を重んじる文化人、オルタナティブカルチャーを模索しているグループ、最近はカマコンバレー、若いクリエイターや起業家も加わって、かつてのように閉鎖的ではなく多様性が許容される土壌が生まれてきているように思います。まさに、先に紹介したパーマカルチャーのようなシステムー多様な人材が有機的に相互に助け合う状況が生まれた時に、もっとも美しいシステムー生き方、働き方、経済、コミュニティーが生まれるのだと確信します。僕はその一部となってデザインに加わりたいと思っています。
この先、リスクがたくさんある世の中になり、大きなものー会社や国家自体もどうなるかわからないなかで、
僕は今までとは逆サイド=ローカルニッチサイドにたち、できるかぎり個人の自給スキルを高めつつ、プロセスを可視化し、多様な人材とスキルをもちつもたれつ、多様なコミュニティを形成し、結束をつくりながら共同体で助け合って生きていくパーマメントシステムのモデルづくりを目指しています。大きな理想を掲げながらも、耳目口手足から離れない身体感覚を忘れずに。
5 アクセンチュアに残る同僚と後輩たちへのメッセージ
◻︎自分らしくあるがままを大切にすることの重要性
これは、僕の反省でもあるんですけども。差別化とか競争戦略だとかいいますけど、自分に正直であるというのが一番強いんだと思うんですよね。
これからの時代は確実に、個の時代が訪れます。 アクセンチュアが進めているグローバル資本主義経済がさらに世界を覆いつくすならば、ますます外国人勢力や デジタルデバイスに代替されないような、なにかがなければ仕事にならなくなるわけだし、逆にローカルニッチで生きる場合においても、個性=商売に直結します。
いずれにしても、クリエイティブでなければいけないわけですが、それは個人的経験や自分ならではさからくる。これは決して無理をするということではなくて、好きな事、いいなと思うことを追求することそのものです。
これからは僕は、好きな人と、好きな事しかやらないと決めました。でもこれは、アクセンチュアにいてももっともっとできたことでした。
若手は、なんでもできないといけないと教えられるけど、これからはそれも無視しちゃっていいんじゃないかと思います。コンサルタントの仕事って、本当にこれが正解っていうマネジメントスタイルもスキルも決まったものはない。紙がかけなくても、話が下手でも、そのことに絶対に自信をもってほしい。コンプレックスこそ最大の個性です。ほとんどの欠点は長所の裏返しですから。
ああ、これがダイバーシティーってことなんだな、と本当の意味を最近になってようやく理解したんですが、多くのマネジメントは理解してないか実践できていないと思います。同僚や部下や上司のできないことを指摘したり批判しあいます。組織に多様性がないとなぜダメなのか。それは画一的な組織はシステムとしてサステイナブルに存続しえないからです。これは格差論とも相似形です。できない人間を許容しないシステムは何代ももたない。弱者はいつかの自分であり将来の自分であるからです。
個性の発揮と組織の多様性こそが、生き残る道です。
◻︎クライアントファーストではもうだめ
競争至上主義、成功至上主義、経済合理主義・・・つきつめていくと、人間の知性が失われると僕は思ってるんです。成長すればいい、勝てばいい、儲かればいい、どんどん「内容は問わない」となる。いま特に日本は安倍政権になって反知性主義に陥っているという人たちがいますが、僕もそう思います。大衆には最悪シナリオに気付かせないように反知性化を狙い、エリートたちは水面下でノアの箱船を着々とつくっている、そんな恐ろしい妄想は現実かもしれません。
そんなことは許したくないですね。エリートこそが、中身=信念をもって、将来の社会全体のことを考えていかなければないと思います。そうでなければとんでもない社会になってしまう。自分だけ、とか家族だけがとか事業が儲かりさえすれば、じゃだめですよね。
世界一貧乏な大統領 ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカのスピーチを聞いて、僕は世界の指導者にもこんな人がいるのだと感動したことを覚えています。
「人類は発展するために生まれてきたわけではない、幸せになるために生まれてきんだ」
これからは、クライアントファーストではもうダメなんです。
クライアントが短期的にちょっと儲かることを支援しているくらいじゃダメなんです。クライアントも変な方向に行きかねないし、だいたい今の消費者は知性を奪われてしまっていますから、お客さんを騙してものを売ろうと思えばものはいくらでも売れますから、お客さんは神なんていっていては社会は決してよくならない。
アクセンチュアだけがもうかる提案なんて論外だし、クライアントの利益があがるだけでもまだ足りなくて、それが本当に価値ある提案じゃないと提案しない、この姿勢は貫かなければならない。
僕が若いときまではそういう会社だった気がします。今は正直わかりません。
なぜなら、アクセンチュアも相当大きな会社になり、株式会社としてはますます成長と生き残りをかけて熾烈な競争を繰り広げています。全ての意思決定がそんな理想的なことだけでは成り立たなくなるのは当然です。
それでもみなさんには地球の幸せと、何より自分たちの幸せを追求してほしいし、そのイズムをグローバル資本主義社会を牽引するものの使命としてみなさんに持ち続けてもらいたいなと願っています。
6 成功者とは、大富豪ではなく・・・
最後に、僕が、波乗りをやり、釣りをやり、畑をやっていて感じることは、やはり自然こそが一番の教科書だということです。
一番の成功者は、大富豪ではなく、大自然です。
もっとも豊かで、もっとも美しく、もっとも完成されたものというのは、やはり自然しかないと思うんです。
だから、四季折々の自然を感じながら生きていくことに僕たちの幸せのヒントがあるのだと思います。大事なことは人間のもっている知性と感性を研ぎ澄まし、身の回りの小さな変化に喜びを見出す力を取り戻すことです。
人工的な強い刺激による幸福感は、麻薬や農薬と同じで、依存体質をつくり、自身をもろくしてしまう。刺激がないと生きていけなくなり、なくなったらどん底に落ちてしまう。穏やかな幸せが有機的で自然な生き方で、ときどき、荒波もあるけど、それを抑えつけるんじゃなくて、それを受け入れて調和して乗り越えていく人生を目指したいものです。
僕は、今一度自然を注意深く観察し、そこから学ぶことから、人間の本当の豊かな営みー生活、経済、コミュニティーの新しいシステムづくりを目指していきたいと思っています。
一人でできることは本当に小さい事だとよくわかっています。だから、共感できる仲間・コミュニティと一緒に楽しみながら、新しいチャレンジをしていきたいと思っています。
これだけ長い文章はよい迷惑でしたね、笑
ここまで読んでいただいた方は、きっと何かを共有し一緒にできる方だと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
何か感じることがありましたら気軽にご連絡ください。
ちっぽけな僕ですが、まだまだできることやりたいことの本の一部もできていませんが、一歩一歩確実に進めていきたいと思います。 今後ともおつきあいのほど宜しくお願いします。
山下 悠 一